十二日目 中国 上海

夜行電車の軟座は最悪だった。せっかく隣がフリーで、のびのびと座れていたところを、後ろの席の女性の恋人が、隣に座りたいと言ってきて、お人好しな私はOKしてしまったのだった。今考えれば、どこから来たのかわからない人だったし、もしかしたら下位の席の人だったのかもしれない。これが運のつきだった。 最初こそ、にこやかにいろいろ話しかけてきたり、前の中国語を話す金髪女性が通訳してくれたりと、友好的なムードが漂っていたが、次第に寝る時間になってきてからの彼の横暴っぷりが姿を現してきた。まず、真ん中の手すりは絶対にゆずらないと決めているかのような態度。何かの拍子で相手の腕が手すりから離れたとき、私が少しでも動こうものなら、取られてはならんと言わんばかりのスピードで手すりを掴み直す。そして、次第に身体がずれてこちらの方へ寄りかかってきはじめる。私がもぞもぞと動こうとも気にしない。私の領域はじょじょに侵犯され始めていた。知らない人の身体が自分に触れているのは非常に不快で、とてもではないが眠れない。極めつけは、靴を脱いで更にその足を椅子の上に乗せて、私の膝に当たりそうな位置に置いたことだった。私は必死で横にずれる。これは、単に図々しい人、という範疇を超えているように思える。こっちはフリーの席を譲ってあげたのだから、自分は少し遠慮するものが筋なのではないだろうか? 本当は伸び伸びと座れるはずだったのに、あんたのせいで必要以上に窮屈になっているんですけど。私は、この状況をどのように打破しようかと頭の中で考えた。やさしくそれでいて丁寧に、自分の席に戻ってくれるように伝えようか。それとも、Dont touch meとかいって、足を指さし嫌な顔をしようか。でも、こんな夜中に周りの人に聞こえるような話し声で険悪な感じになるのだけは避けたい…。そう考えている間にもぐんぐん足が迫ってくる。触れそうなのも嫌だがなにしろ臭くてもう我慢が出来ない。私は抑えきれずにこいつの足を手で押しのけた。ぐーすか眠りこけている奴は、ふっと目を覚まし、何とはなしに足を下ろしてからすぐにまたいびきをかきだした。そしてその下ろした足はまた私の足の上に伸びてくる。この野郎〜…。私の中で何かが切れた。今度は思いっきりその足を私の足で押しのけた。これでさすがにわかってくれるよな…、さあ、どういう出方でくるのだ? と思っていた矢先、またいびきが聞こえてくるのだった…。しかしその後何となく嫌な感じは伝わったのか、彼が起きて後ろの席の人に場所を変わってくれるように頼んでいた。どのように伝わったのか…それはわからない。

上記の彼の行動に見られる中国人の国民性は、その後に乗った地下鉄でも遺憾なく発揮されていた。朝の八時、通勤ラッシュに当たる時刻。電車がやってきてドアが開いても、降りてくる人などおかまいなしに、待っていた人たちが無理矢理乗り込む。降りる人も乗る人も力ずくでせめぎ合う。降りてくる人に押されてなかなか乗り込めなかったお姉さんは、ひどく舌打ちし続けていたが、それは理不尽というものだろう。結局、その電車に私は乗れず、次の電車を待つことになった。次の電車は始発だったらしく、誰も乗っていなかった。ここからは血も凍るような椅子取りゲームの始まりである。ドアが開いた瞬間、後ろから思いっきり押された。眼前には、容赦なく人を突き飛ばし、ぎゃーぎゃー喚きながら、席を奪い合う中国人たちがいた。これが、中国人なんだなあと、初めて理解した。

その後、電話をかけようと思ったが、街の公衆電話はコインまたはカードではないと使えないところが多かった。道ばたに立っていたビジネスマンに、紙幣をコインと換えてくれないか、とジェスチャーしたところ、自分の携帯を差し出してきてこれでかけろ、と言ってくれているようだった。とても親切でほっとしながらも申し訳ないので断って、別の歩いている人に声をかけたが、1元紙幣を一枚もって何事かを言ってくる私は、もしかしたら「1元めぐって」と言っている乞食に間違われていたのかも知れない。誰一人止まって話を聞いてくれないどころか、冷ややかな目を向けてくるのだった。突然ものすごい孤独を感じて、泣きそうになった。誰彼かまわず声をかける私がいけないのだが…。そのうち、街を掃除している係りの人に声をかけたところ、KIOSKのようなところで対面でかけられる、と連れて行ってくれた。料金は後払いで液晶に表示される仕組みだった。1分くらいで2元だった。この地に単身暮らしている父への電話だった。

いきなりの訪問に、当たり前だが父は非常に驚いていた。人生で最も大きな驚きだった、と大げさに言われた。私は、会えば絶対に怒られるだろうし、場合に寄っては強制送還、なんていう恐怖を感じていたりしたが、実際は思っていた以上に歓迎してくれているようだった。実際、駐在員たちの生活は日本では考えられないに優雅に暮らしているものだ。まず、中国とは思えないような綺麗でのどかな世紀公園を散歩してから、近くのマグロ専門店で、日本の築地から仕入れて来るという極上のマグロ寿司を食べ、家に帰ってシャワーを浴び、日本人御用達というマッサージへ連れて行ってくれた。気がつけば、この旅に出て始めていくマッサージだった。今までも何度かチャンスはあったが、料金やシステムへの不安から踏み出せずにいたのだったで、これは本当に嬉しかった。そこは、ヤオハン近くの盲人按摩のお店で、男の人がやってくれた。マッサージは絶対男の人の方がいい。何しろ体力が続くし、指が太い分力の範囲が広い。女の人は細い指が食い込んできて痛いことが多い。そして、体力がない分、後半は疲れてきて手抜きをする確率が高い。この店の彼らは最高だった。父を担当した15番の人は、この店一番の凄腕と有名な人だったらしい。でも、私を担当してくれた、少し目の調子が悪いような彼も、とてもとても上手だった。足つぼと全身と合わせて2時間くらいもあったのに、最後まで丁寧で、一生懸命やってくれた。100元くらいだった。その後は、近くの日本語が通じる焼肉店で焼き肉を食べる。あぁ、今までの孤独な旅が嘘のように、日本にいるかのように快適な時間が流れている。まあ、少しはこういう時があっても良いだろう。このときの私は、そんなことを思っていた。



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